物置きに住むということ・2nd season

チラシ裏を、ふたたび。

くじらの、はなし。

普段の内容と、ぜんぜん違う話を、書いてみる。


だいぶ前に、近所の小さな入り江に、くじらが一頭来た。
どうしてか、数日、入り江の中で静かにしてる。
たまに少し泳いだり。
どうして外へ出ていかないのかわからない。

おもしろそうなので、見に行った。
仕事終わりの夕方、でっかいくじらを間近に見た。ほんとに大きい。
潜水艦ってこんなだろうと思った。
みんな近所の人も見に来てる。子供も大人も見てる。

防波堤の真横に来て、ぶしゅーっ、と潮を吹く。
こどもがきゃーといって、歓声を上げる。見物人も増えた。
ところが日に日に元気がなくなってきて、だんだん動かなくなってきた。


テレビに専門家が出てきて、「たぶんこのままでは死んでしまう」という。
エサがほとんどとれない場所なんだそうだ。
なんとか漁師さんたちも工夫して、入り江の外につれていこうとしたが、
わりと獰猛な種類のようで、手が出しきれない。
浅瀬に乗り上げ横に一回転したり、苦しそう。
かわいそうだった。
死んでしまったら、大きな死体の処理をどうするのかとか、もめていた。

毎日夕方、衰弱していくくじらを見に行った。だんだん痩せてきたのがわかった。
近所の人も集まって大人も子供も、がんばれがんばれって、
でっかいくじらに声をかけて励ましはじめた。
くじらはもちろん何も言わなかったけど、ときどきぶしゅーっ、と、潮を吹いて、
まるで返事をしてるように見えた。


かわいそうになって見るのもつらくなって、もうだめなんだろうと思って、
俺は見に行くのをやめた。


2日後、「クジラが少し泳ぎだした」という報道があった。なのでまた見に行った。
小さな入り江の中だけど、確かに少し泳いでる。
見に来たみんなも喜んで、がんばれがんばれ元気になれって、大声で。

そして2日後には入り江から湾に出ていって広い範囲を泳ぎ始めた。
でもどうしてか外洋には出ていかない。
その日は日曜だったので、たくさんの人が見に来ていた。
みんなニコニコしてたのを覚えてる。
くじらは、次の日まで湾の中を泳ぎまわって、

まるでしばらく滞在した場所から離れ難いように、
そして、励ましてくれた人間たちにお礼を言うように元気に泳ぎまわって、

いつのまにか深くもぐって、外洋に消えていった。


ただの偶然かもしれないけれど、
人間の近くにきて、しばらくいた、くじら。
もしほんとうに、励まされたことがわかっていて、
ありがとう、こんなに元気になったよ、という気持ちで泳ぐところを見せたのであれば、
それはとても貴重ですばらしい、心が通じた時間であったと思う。

くじらはとても長生きだという。
まだあの時のことを覚えていて、世界の海を泳ぎながら思い出したりしていたら、
とてもロマンチックだ。
また帰ってこないかな、と思っているが、今のところ帰ってくる気配はない(笑)


当時、BSの「世界の天気予報」のBGMが、
Scott Wilkie の "Whale Song"という曲で好きになった。
今でもこの曲を聴くたびに、あのくじらが来た、
初夏の入り江を思い出す。